従来、企業価値は企業の時価総額が表すものとされ、その企業が将来生み出す収益への期待を反映していた。つまり、過去の企業の業績などを示す決算書類やわずかに開示された新製品情報や新ビジネスに関する限られた情報に依って株価(企業価値)が評価されて いたのである。しかし、米国アップル社は決算書上の株主資本が約7兆円程度で2022年1月3日に3兆ドル(約340兆円)の時価総額を付け、東証1部上場企業2185社全体の時価総額合計約730兆円の約半分を1社で達成することになった。一方、日本の個別企業では、ソニーグループがほぼアップルと同額の約7兆円程度の株主資本に対し、時価総額は約18兆円に過ぎないのである。この事実は、極めて象徴的ではあるが、要はアップル社では株主資本で説明できる時価(企業価値)が市場での企業価値(時価総額)の2%分しかないのである。つまり、残りの98%、320兆円以上の価値は、投資家が分析する将来収益予測と非財務情報といわれるESGへの対応情報、とりわけ気候変動リスク、人権尊重への対応、ジェンダー問題への対応など、人的資本に関する情報、新製品、ニュービジネスへの着手などの進捗状況情報などにより企業価値が算出されたことになる。
以上のように、企業価値が近年企業の利益や企業の過去・将来の財務情報に依存することなく、ESGへの対応や気候変動リスク対応など非財務情報開示の質と量に依ることに なっていることを理解しなくてはならない。このため、前号でも述べてきたように、日本においても世界的な非財務情報開示拡大の流れを受け、'22年4月1日からプライム市場 上場会社へサステナビリティ関連情報の開示が要請('21年6月改訂CGコード)されており、中でも、「気候変動に係るリスク及び収益機会が自社の事業活動や収益に与える影響については、必要なデータ収集と分析を行い、国際的に確立された開示の枠組みである TCFD(気候変動関連財務情報開示タスクフォース)またはそれと同等の開示の質と量の 充実を進めるべきである(改訂CGコード補充原則3-1③)、とされている。この新たに新設された気候変動リスクへの対応について多くの企業が困惑しており、気候変動による自社のリスクと機会をどのように認識し対応していくか、更に非財務情報としてどのように開示するかについて重要な課題として取り組みを始めたところである(CGコード補充原則2-3①)。
他方、このTCFD提言の中で企業の温室効果ガスの測定や開示については、自社のみならずサプライチェーン全体(Scope3)についての開示も要請されており、上場企業と取 引関係がある非上場企業の温室効果ガスの排出量や削減への努力目標をも合わせて検討しなければならないことから、プライム市場上場企業だけでなくその取引先であるサプラ イチェーンの企業群にも大きな波紋を呼んでいる。もちろん、金融関連でも20か国・地域(G20)首脳会議('21年10月)では、既に脱炭素を進める上での「トランジション・ファイナンス(移行金融)」が論議され、脱炭素を進める産業や企業への融資拡大や、企業が気候変動リスクへ対応しグリーン企業になるかならないかが、金融機関の支援を受けられるか否かの選別のキーワードにもなりそうである。以上のことから、各国政府、機関投資家、金融機関を含め脱炭素の機運が高まっている。そこでも、気候変動関連情報の開示を求めるTCFD提言への対応が企業価値の向上だけでなく、企業存続さえも左右するものと考えられ始めている。
このように、現在、日本企業の多くでは上記のサステナビリティ重視について、とりわけ、「気候変動リスクへの対応とその非財務情報としての開示」が急速に大きな経営課題 となり、その対応の指針としてのTCFD提言が注目されている。本稿では、主として、このTCFD提言に基づく非財務情報開示について解説する。提言では、企業として開示すべ き情報を4つの項目(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)に整理されている。このうち、「戦略」の項目においては、「2℃以下シナリオを含む様々な気候関連シナリオ に基づく検討を踏まえ、組織の戦略のレジリエンス(強靭性)について説明する」と記載があり、気候変動という長期にわたる不確実な課題に対する経営戦略の持続可能性・強靭性を評価する観点から、気候変動シナリオ分析の実施が推奨されている。ここでは、この「シナリオ分析の進め方」の実際について解説することにする。
まず、◎STEP1は「シナリオ分析のガバナンス体制構築と対象の設定」である。①➤経営陣のTCFD提言への対応の意義の理解とシナリオ分析実施の指示。②➤分析実施体制 の構築。③➤分析対象の設定-対象地域、事業範囲、企業範囲など確定。分析対象範囲の設定では「売上構成」、「気候変動との関連性」を軸に行い、売上構成の大きい事業、CO2排出量の多い事業、データ収集が容易な事業から始める。④➤分析の時間軸の設定、将来の「何年」を見据えた分析を行う。その際自社の事業計画の期間、社内の関係者の巻き込み状況、物理的リスクの自社への影響度から分析の有用性を鑑みて時間軸を決定。2030年を選択する場合には、参照可能なデータが多く、事業計画との連携が容易である。他方、時間軸が短いため、物理的リスクが少なく見積られる可能性もある。
◎STEP2は「リスク重要度の評価」である。企業が直面する気候変動によるリスクと機会について検討する。それぞれのリスクと機会が将来的に財務上の重要な影響を及ぼす 可能性があるか?組織のステークホルダーが関心を持つ事象か?という視点で検討し、自社の重要度を評価する。具体的には、①➤対象となる事業に関するリスク・機会項目を 列挙する。ここでは、TCFD提言が例示しているリスク・機会を基としながら、業界別レポート、CDP回答(気候変動視点 1 Sanyu Journal . 2022.Apr.アンケート)等の外部情報も加味し、リスク・機会を一覧化する。想定外をなくすため、幅広に検討・列挙する。なお、一覧化したリスク・機会項目は「低炭素経済への移行リスク」、気候変動による物理的変化に関する「物理的リスク」に大分類される。移行リスクには、政策規制、市場、技術、評判(顧客の評判の変化、投資家の評判の変化)などがあり、物理的リスクには、発生が慢性的なもの(平均気温の上昇、降水・気象パターンの変化、海面上昇など)と急性的なもの(異常気象の激甚化)などが挙げられる。②➤事業インパクトの定性化、既に列挙されたリスク・機会項目について、起こりうる事業インパクトを定性的に表現する。定性的表現については、外部レポート、競合他社のCDP回答等の外部情報も参考としながら、社内関係者とのディスカッション結果をインプットして記載する。このディスカッションにより社内のシナリオ分析の理解を相乗的に深めることが可能であり、社外関係者とのディスカッションも有用である。③➤リスク重要度評価、ここでは、列挙されたリスク・機会が現実のものとなった場合の事業インパクトの大きさを軸に大、中、小と評価してリスク重要度を決定する。例えば、影響範囲が大きいリスク・機会、重要商品に関するリスク・機会を大として、自社に影響が全くないリスク・機会を小とし、それ以外を中とする。ただ例えば、同じリスク・機会項目でも、商材の違い(セクター別)、影響が出るサプライチェーン(サプライチェーン別)などにより細分化してリスク重要度の評価を行えば、経営実態に近いものとなる。異常気象の激甚化による財務へのインパクトはサプライチェーン別にみると、調達段階では、大、販売段階であれば、小となる場合がある。
◎STEP3では、「シナリオ群の定義」を行う。ここでは、組織に関連する移行リスク・物理的リスクを包含した複数のシナリオを定義する。どのようなシナリオが組織にとって適切か、存在するシナリオ群の中からどのようなシナリオを参照すべきか、という視点と共にシナリオの仮定や分析手法を検討する。シナリオ分析に初めて取り組む際には、信頼性のある外部シナリオを使用しつつ、2℃以下を含んだシナリオを複数(2℃(又は1.5℃)と4℃)を選択することが考えられる。各シナリオにおける世界観を詳述した上で、社内合意を図ることが目指すべき方向性であろう。具体的には、第一段階としてシナリオの選択であり、不確実な未来に対応するため、“2℃以下シナリオ”を含む複数の温度帯のシナリオを選択していく。シナリオの種類としては、最も汎用性が高く、データが豊富なIEA(国際エネルギー機関)のWEO(World Energy Outlook)、SSP(Shared Socioeconomics)などが存在する。TCFD提言では、2℃以下を含む温度帯シナリオの選択を推奨しており、シナリオの特徴やパラメーターを踏まえ、自社の業種や状況、投資家の動きや国内外の政策動向に合わせたシナリオの選択が重要である。なお、“2℃シナリオ”は、今後厳しい気候変動対策をとれば、産業革命時期比で0.9~2.3℃の上昇想定のシナリオで、“4℃シナリオ”は現状を上回る対策を取らない場合で3.2~5.4℃上昇するシナリオである。基本的には、可能な限り温度帯、世界観が異なるシナリオを選択することが想定外事態を回避する上で重要である。第二段階として関連パラメーターの将来情報の入手が必要となる。これは、不確実な未来に対応するため、リスク・機会項目に関するパラメーターの将来情報を入手し、自社に対する影響をより具体化する。例えば、EVの普及を機会項目に挙げた場合、分析時間軸の該当年のEV普及率の情報の入手が必要となる。情報入手には、移行リスクについては、IEA、PRI(責任投資原則)、SSPのレポート、物理的リスクについては「気候変動適応情報プラットフォーム(A-PLAT)」や物理的リスクマップ、ハザードマップ等の気候変動影響評価ツールといった外部情報からパラメーターの将来情報入手が可能である。第三段階はステークホルダーを意識した世界観の整理が必要である。必要に応じた将来情報を基に投資家を含めたステークホルダーの行動等の自社を取り巻く将来世界観を鮮明にし、社内の事業部を含む関連部署と納得感のある世界観を、対話を通じて構築することが重要である。対話には、事業環境フレームワークの5forces分析等を用いて、新規参入・売り手・買い手・代替品・自社の業界などを含めた要素により世界観の整理やナラティブな文章や絵などによるディスカッションも有用であろう。いずれにせよ、社外の視点も入れ、網羅性のある世界観の整理と社内合意の形成が必要である。
◎STEP4では「事業インパクト評価」が行われる。ここでは、STEP3で定義されたそれぞれのシナリオを組織の戦略的・財務的ポジションに対して与え得る影響を評価し、感度分析を行う。第一にリスク・機会が影響を及ぼす財務項目の把握であるが、先ず事業インパクトがPL上の売上か費用のどちらに該当するか整理する。この際、使用する内部データの例は「事業別/製品別売上情報」、「操業コスト」、「原価構成」、「GHG 排出量情報」等の通常使用するデータが参考になる。第二は算定式の検討と財務的影響の試算であり、ここでは、財務項目について算定式を検討し、内部情報を踏まえて財務的影響を試算する。算定式はSTEP3の関連パラメーターの将来情報の入手で収集したデータと、前項で入手した内部データを組み合わせて検討する。例えば、「炭素税の増減」という財務項目であれば、「2050年の自社のScope1,2のCO2 排出量(内部データより推計)× Scope1,2排出量へのt-CO2当たりの炭素税(将来情報より入手)といった算式が想定される。第三に成行きの財務項目とのギャップを把握する。前項で算出した試算結果を基に将来の事業展望(将来の経営目標・計画)にどの程度のインパクトをもたらすかを把握する。気候変動の影響を可視化すると事業インパクトが大きいリスク・機会は何か、気候変動により将来の経営目標・事業展望がどの程度脅かされるか等が把握可能となる。
◎STEP5は「対応策の定義」である。ここでは特定されたリスク・機会への対応策として、適用可能な現実的な選択肢を特定することになる。例えば、「ビジネスモデル変 革」、「ポートフォリオ変革」、「能力や技術への投資」等である。具体的には、①➤自社リスク・機会に関する対応状況の把握、②➤リスク対応・機会獲得のための今後の対応策の検討、③➤社内体制の構築と具体的アクション、シナリオ分析の進め方の検討である。以上を踏まえて、企業の中期経営計画にも気候変動リスクを組み込むことは重要であり、複数シナリオについて戦略的・財務的な計画にいかなる修正が求められるかの検討も必要である。事業インパクトの大きいリスク・機会については、具体的な対応策の検討が必要であり、 どのような状況下でも対応し得るレジリエント(強靭)な対応策が求められる。 TCFD提言の気候変動リスク対応についての情報開示については、提言の4項目のうち「戦略」部分が重要であり、中でもシナリオ分析については幅が広く、また会社全体はもとよりサプライチェーンまで巻き込んだ対応策の策定から実践まで求められている(以上、環境省「TCFDを活用した経営戦略立案のススメ」並びに「TCFD最終報告書」参照)。